『とうとう月経がなくなった!?突然のお知らせに驚愕して新境地を得た独中女の巻 vol. 17』

2012.4月から連載した
『独中女の心の叫びを
聞いてくれ』リライトです
vol.17

 

人間が死が近づくにつれて
若くなっていったらどうなるだろう。。。
なんてことを考えた映画

沢尻エリカ主演、
蜷川実花監督の映画『へルタースケルター』を
観てきた。

原作は岡崎京子。
映画に行く前、

家にある原作の漫画を
久方ぶりに読んでから
映画館へ向かう。

映像の細かいところや
セリフひとつまでかなり

忠実に原作と同じく
描かれていることに驚く。

また何よりも蜷川さんの
極彩色豊に描かれている

ひとつひとつの映像が
とても美しく楽しめて

どのシーンも目を離す
ことができない。

沢尻エリカがある意味
復帰作品とされた
主演映画であることと、

彼女のオールヌードは
もちろん過激なセックスシーンや
狂気的な展開が話題だが、

岡崎さんの原作で描かれていた
メッセージはきちんと存在した。

「なぜ神はまず若さと
美しさを最初に与え
それを奪うのでしょう? 」
というセリフ。

まるでシェイクスピアの
作品にでてきそうではないか。

「今のセリフ聞いた?、聞いた?」
劇場内の大半の若い女性客に、
尋ねたくなる程含蓄のある言葉だ。

だが、悲しいかな皆さんは
まだまだ若いから本当の意味での
実感は少ないだろう。

だがこのセリフは、
古今東西の全ての女性が
人生において対面し抗い挑み
続けていることではないだろうか。

「若さと美しさは同義じゃないよ
若さは美しいけれども

美しさは若さではないよ
美はもっとあらゆるものを
豊かにふくんでいるんだ」

このセリフも原作ではさらっと
言っているが、美に対する人の欲望を
超越した真意が語られていると思う。

また、りりこが狂気の沙汰の中でも
「自分の人生、自分で決めてきたんだよ」と
啖呵を切るセリフにしびれた。

原作者の岡崎京子さんは
この作品を描いた1996年、

飲酒運転の車にはねられ
現在もリハビリ中で
執筆活動をしていない。

事故に遭わなければ
この作品のりりこは
今後どう描かれたのか。

続きが見られないことを
残念に思う人も多い思う。

と長々と書いて参ったが、
私は映画の評論を書いている
訳じゃございませんぜ。

本日の独中女さんの登場です!

今回登場する独中女は
あることがきっかけで

見るもの全ての視界が
今までとは全く違って見え、

人生あと40年後半戦を
生きていくのが俄然楽しみに
なってしまった人をご紹介しよう。

彼女は最近深刻な人間関係に
苦しんでいた。

親密だと思っていた人と
理解し合うことができず、

日々怒鳴り合いの喧嘩を
繰り返していた。

こんな経験は初めてだった。
なんとも思い通りにいかない。

それでも淡々と生活を
送ってはいたが

ある時はたと、生理がきていない
ことに気が付く。

初潮を迎えてからこのかた
生理はいつも正確に計ったが如く

毎月予定通りにくる体質
だったのに、

一週間経てども
二週間経てども
生理がこない。

もしや生理が
上がってしまったのか!?
と衝撃を受けた。

ショックだった。
ショックで落ち込んで
絶望的になる。

と思っていた。

が、なんだかとても
清々しい気持ちに
なっている自分に驚いた。

彼女は絶対子供を
産みいと強く思って
生きてきた。

四十路を過ぎると
卵子の老化は深刻と
いうことを最近知った。

自分が20代の時には、
んなこと誰も教えてくれなかった。

でも最近のメディアで、
40代はもちろん、
30代後半でも、
不妊治療を試みたとて
妊娠する確率が低いこと。

仮に妊娠したとしても
出産にはリスクが伴うという
ことを熟知していた。

でも自分は「それでも産みたい」
思っていた。

子供を持てる確率が低いと
言われても

オーディションを
受けないで諦めてしまうのと
同じことだったからだ。

オーディションに落ちたら
諦めも付く。

子供を持てるか否かの
オーディションは、

結婚してからしか機会は
訪れない。

そこいらで出会った人の
子供を妊娠するのを
試す訳にはいかないからだ。

それに、「この人の子供を
産みたいと」と思う気持ちは
女であれば究極の愛情の表れ
でもある。

その気持ちを持って
産んでみたいと
思っていた。

子供を産みたいという想いは、
三十路を過ぎたあたりから
ずっと心や頭の片隅にあった。

やがてそれは、
言われない、いつも付きまとう
「焦り」になっていた。

オーディションの機会さえも
得られない焦りは、

日々、変わらず生活を送ってはいるものの
潜在意識の中で存在した。

努力してもいかんともしがたい
パートナーと出会う→結婚→妊娠→出産しなきゃ。
という強迫観念は、
心の中でとぐろを巻いていた。

がしかしだ。

なんのトライもしないまま
突然自分に生理がなくなって
しまったのだ。

子供を持ちたいと強い思いがあっても、
生理がなければ可能性はない。

じゃ、仕方ないか。

この時の自分の気持ちに
自分で驚いた。

衝撃だった。

この「仕方ない」という思いの裏に、
やっと、この卵子のリミットとの闘いに
終止符を打つ時が来たんだ。

正直言って安堵している自分がいた。

この気持ちは
それはそれは清々しいものだった。

子供を持てないと分かったら、
早くパートナーを
見つけなければならない、

という悲壮感にも
似た気持ちを

持たなくて
よくなるのだ。

となれば相手を見つける気持ちは
心から楽しいものになっているから驚いた。

これからどうやって生きていこうか。
残りの人生のライフプランの練り直しだ。

これがなんとも楽しくて仕方がない。

何年も前から誘われていた
仕事もやってみることにした。

その仕事をするとなったら
結婚したら出産したら旦那様が
いたら無理だと思って断っていたのだ。

その陰も形も煙も立ってないのに。

またタイミング良くそういった人が
見ていたかのように再び声を掛けて
くれることも驚く。

もうお分かりですね。

これ私のことです。

この後、
再び生理は巡ってきた。

念の為産婦人科にも行ったが、
一過性のストレスからくる

生理不順の可能性が高いと。
そうでしたか。

でも今の自分の大発見した時の
気持ちは変わらない。

産まないという人生を
考えもしなかった私が、

産めないと、突きつけられた時、
全く以て目に入るものが違って
見えたのだ。

そうと分かったら選択肢が
違う形で活き活きとこちらに
手を挙げてくる。

言っておくが、
これが最愛の旦那様やパートナーが
いらしてお互いに子供を
望んでいる方には
全く該当しない境地だと思う。

私の周りでも不妊治療に夫婦で
挑戦している人が何人かいるが
心から最善の結果が出るよう祈っている。

私の今回のひとつのきっかけは、
自身の後半戦の人生をどう生きるのか。

早いとこ舵取り修正をさせて
くれたと言ってよい。

私はとにかく「遊楽」することに
決めた。

仏法の言葉で「衆生所遊楽」という
言葉があるらしい。

皆人間はここに遊んで
楽しむ為に生まれてきたというのだ。

であるならば人と会って、
お金を稼いで、
ご飯を食べたりすること
などなど全てが遊楽ということになる。

俄然楽しくなってきた。

「自分の人生、自分で決めてきたんだよ」

りりこが言うセリフ。

改めて自分が何をしたいのか
どう生きたいのか。

自分の人生を決めることとは
なんとエキサイティングで
スリリングなことだろうか。

その落とし前は自分で取るのだから
なおさらだ。

 

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